阪神大震災の記念日を迎えて

忘れもしません。未明の突然の大震災。
自宅で、飛び起きて一階に下りると、大学生の娘が床に座りこんで泣いていました。
台所で、学校に行くためにお弁当のおかずを調理していていたのですが、天麩羅をあげていたので、驚きながら思わずガスの火を消したが、戸棚から食器類が飛び出してあたり一面に飛散し、ショックで座り込んで泣いていたのです。家族の無事を確認し、すぐさま会社の状況確認をすると共に、社員の安否の確認を始めましたが、電話が通じにくく、全員の無事が確認できたのは一週間後くらいでした。
幸い、会社は大きな被害も無く、驚くことに社員の大半は当日にも関わらず出勤してくれました。会社は西区にあり、被災中心地の神戸市内のことは本当に何もわからない状態で
やきもきするばかり、そのうち、電気設備の復旧依頼がどんどん入ってきました。
毎日、朝から夜の10時頃まで、約2ヶ月間一日も休まず、全員必死で復旧作業に駆けずり回りました。当時は携帯電話もまだ十分に利用できていませんでしたが、当社は幸いにも全車に業務用無線機を搭載していましたので、緊密に連絡を取りながら迅速に行動することが出来ました。当初は道路も非常に 混雑し、神戸市内に出るだけで、約2時間もかかる有様でしたので、無線機を使えたことはとてもありがたかったことを覚えています。
やっと、落ち着いたのが、震災発生から2ヵ月後でした。お取引先をはじめ、公共施設病院、あらゆる施設の電気設備の復旧に駆けずり回り、私も50ccのバイクで走り回ったものですから、腰を痛めたり、大変でしたが、一段落をして、社員慰労のため、全員で食事会をすることになり、希望を聞いたら全員が和食、刺身とのこと、ああ、みんな日本人なんだと思ったことでした。特に女性はお風呂に入りたいとの要望が強く、家族も含めてお風呂の確保に奔走したことも懐かしい気がします。資材、機器類を調達してくれたメーカー、販社のみなさんも全力で、支援してくださり本当に助かりました。しかし、政治、経済不況、 一大危機に際し、団結して頑張ったあの時の日本人の元気は、今どこに行ったのでしょうか。