禍福は糾える縄の如し・・・

「禍福は糾える縄の如し」人生をより合わさった縄にたとえて、幸福と不幸は変転するものだという意味故事成語との事・・・

約20年程前になりますか、人間はこの世に生を受けた時から禍福の洗礼を受けることになると言う考え方をするようになりました・・・

それは生まれながらにして恵まれた環境に生きる人、不遇な厳しい生き方を与えられた人の不平等をなぜなのかと考えたからです・・・

ある日ふと気づいたことなのですが、全ての人間は生まれた時から死に至るまでの間の禍福の量の合計が実は全く同じではないのかと思ったのです・・・

神仏が人間を創ったのであれば、当然公平な条件が根底にあるはず、例えば禍福を、長さ1mx横幅10cmx高さ10cmと言うように定型の容器に収まる量で考えると、その容器は万人に共通の条件、その両極端に禍福を位置付けて、時と状態により、禍福どちらかの量が増減することを想定してみます・・・

禍の量が増えると必然的に福の量が変化して減少する・・・

もし、禍福の量のトータルが定量であるなら、個々の人々に表れている禍福の状態は常に陰と陽のバランスに置き替えて考えても良いのかも知れません・・・

例えば野球のイチロー選手のようなスーパースターの場合、客観的に見ますと福の量が最大に見え、禍の量は最少に思えます・・・

しかし、イチロー選手にも陰陽二極の状態は必ず存在していると言えます・・・

ただ、彼の場合は、本人のたゆまぬ努力を含めた何かの因果でバランス的に福の量が多く、禍の量が小さいと言う状態が多くの人達の目にはうらやましいくらいにとても幸せな人だと見えているのでしょう・・・

人の人生において、身体の不自由な人は家族や多くの人達から気遣いや支援を受けることに関しては健康な身体の人達よりも量的に多くなり、逆に健康な人たちは気遣いや支援を受ける量が少なくなるとも言えます・・・

また、大金持ちであっても病に悩まされているなら禍福量は禍の方が大半を占めることに・・・

人は様々な生命の状態において、もしもその禍福の量が定量であるなら、仏法の文言の中に表されている「因果応報」の通り、原因、結果となるのですから良い結果、人間的に福運を積む努力で福の量を増やし、禍を減らすことは必然だと言えます、・・・

20数年前にこのような事を考えて、福と言う「運」を増やす努力を続けています・・・

「福運」それはやはり、自分さえ良ければでなく、人助け、人の幸せを喜ぶ心の持ちようから、おじさん経営者の独り言ごとです・・・